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The Quilt with an Empty Square|余白を残したキルト

THE QUILT WITH AN EMPTY SQUARE / SABA'S STORY

朝の共同台所で、さばくんは、誰より先に椅子を並べていました。
湯を沸かすことも、落ちたパンくずを拾うことも得意なのに、自分の席だけは、なかなか選べません。

小さな失敗、いつもの道での買い物、縫い目の曲がったキルト。
いつもの暮らしを重ねるうちに、誰かのために空けていた場所が、さばくん自身を迎える場所へ変わっていく、十五部の新しい物語です。

朝の台所小さな日課自分の席おかえり
第13部「持っていくもの」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵
皆から受け取った膝掛けを抱くさばくんの新しい挿絵
第1部「数えなかった席」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 01

第1部|数えなかった席

共同台所の戸を開けると、昨日のねぎが床に一本落ちていた。さばくんは箒で拾い、流しの水滴を拭き、窓を開けた。向かいのパン屋さんが来るころには、湯が小さな音を立てている。 「今日も早いね。座って、ひと休みしなよ」 さばくんは椅子を引いた。パン屋さんのために。隣のおばあさんには窓際、その隣に買い物帰りの人。湯飲みを三つ並べてから、足りないものはないか台所を見渡した。 自分の湯飲みは流しの横にあった。立ったまま飲むと、底に少しだけ冷たいお茶が残る。それを飲み切る前に、誰かの落とした匙を拾った。 「さばくんの席は?」と聞かれて、「あとで」と答えた。 お茶の時間が終わると、三つの椅子は机の下へ戻った。さばくんは湯飲みを洗い、自分の一つも伏せた。窓の取っ手を拭く手が、そこで少しだけゆっくりになった。

第2部「一つ少ないじゃがいも」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 02

第2部|一つ少ないじゃがいも

買い物の紙には、じゃがいも、石鹸、台所用の糸、と書いた。さばくんはいつもの道を歩き、八百屋で三つのじゃがいもを選んだ。一つずつ掌に載せ、傷の少ないほうを袋に入れる。 戻ると、隣のおばあさんが鍋を出していた。「今日は四人だね」。さばくんは袋を机に置き、じゃがいもを並べた。三つしかなかった。 「ぼくは、あとで何か買うから」 そう言って戸へ向かったところで、石鹸が袋から転がった。拾いに戻ると、まな板の上では一つのじゃがいもが四つに切られていた。 「小さくすれば、鍋に入るよ。ほかにも野菜はあるし」 さばくんは袋を畳まず、もう一度買い物の紙を広げた。じゃがいもの横に、四人、と書く。自分の分も買ってよかったのだと気づくまで、鉛筆の先は小さな点を作っていた。

第3部「濡れた献立」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 03

第3部|濡れた献立

皿を洗う水が跳ねて、机の端に置いた献立の紙が濡れた。さばくんは急いで掴み、かえって二つに破いてしまった。明日の汁物の名前が、裂け目をまたいでいる。 パン屋さんが入ってくる気配に、破れた紙を布巾の下へ押し込んだ。濡れた手を背中に回す。頼まれた掃除も終わらないうちに、また仕事を増やしてしまった。 「何か、こぼした?」 「紙を。破いちゃった。ぼくが書き直すから」 パン屋さんは布巾を持ち上げ、二つの紙を皿の裏で押さえた。「乾いたら、裏から貼ろう。ほら、まだ読める」。さばくんは、叱られるつもりで固くしていた肩を動かせなかった。 午後、糊が乾くまで二人で紙を持った。指を離すと、裂け目は少し曲がって残った。さばくんがそこをなぞると、パン屋さんは「明日は、これを作ろうか」と、同じ紙を壁に戻した。

第4部「川向こうの部屋」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 04

第4部|川向こうの部屋

新しい住まいは川向こうに決まった。共同台所まで、今度はバスに乗ることになる。さばくんは帰り道に停留所へ寄り、時刻表を見た。一本逃すと、次まではずいぶん間があった。 前に引っ越したとき、通っていた場所の戸口まで戻ったことがある。中からいつもの声がしたのに、何をしに来たのか言えず、そのまま角を曲がった。 掃除を頼まれていなければ、座る理由もなくなる。そんなふうに思っていたことを、まだ誰にも話していなかった。 翌朝、隣のおばあさんに「何か考えてる?」と聞かれた。 「引っ越すんだ。今月の終わりに」 声にすると、台所が昨日より遠く感じられた。おばあさんは開いていた窓を少し閉めた。「そう。寒くなる前に決まってよかったね」。さばくんはうなずき、まだ暖かい蛇口に手を当てた。

第5部「台所の布」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 05

第5部|台所の布

窓を閉めても、膝が冷えるとおばあさんが言った。さばくんは棚のタオルを持ってきたが、横幅が足りない。片方の膝を覆うと、もう片方が出た。 「もっと大きなもの、作れないかな」 パン屋さんは、自分の店で使った前掛けの、擦り切れていないところならあると言った。買い物帰りの人は、丈を詰めたカーテンの残りを持ってきた。 机に並んだ布は、青い縞と、薄い緑と、何度も洗った生成りだった。さばくんは定規を当て、一枚ずつ同じ四角に切っていった。 「ぼくが、つなぐよ。膝掛けにしよう」 まだ糸を通していない四角を、机の上で動かしてみる。青の隣を緑にすると、少し明るい。おばあさんは椅子を一つ寄せた。さばくんはその椅子に、初めて自分から腰を下ろした。

第6部「斜めの縫い目」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 06

第6部|斜めの縫い目

四角を四枚つないだところで、端が揃わなくなった。広げると真ん中が盛り上がり、机に平らに置けない。さばくんは糸を引っぱった。引くほど、布のしわは深くなった。 「できるって、言ったのに」 おばあさんが覗き込むと、さばくんは裏返してしまった。斜めの縫い目が隠れる代わりに、長い糸が床へ落ちた。箒を取りに立つ。掃除なら、うまくできる。 「糸は、あとで拾おう。一枚だけ、ほどいてみない?」 さばくんは座り直し、針の先で縫い目を一つずつ緩めた。早く隠そうとしていた指が、今度は間違えた場所を探していた。布を重ね直すと、おばあさんが端を押さえた。 二人の間で、少しずつ四角が平らになった。夕方までに進んだのは一列だけだった。さばくんはそれを机に残し、箒を持ってきた。拾った糸くずは、いつもより小さな山になった。

第7部「薄くなったスープ」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 07

第7部|薄くなったスープ

膝掛けの続きを急ぎたくて、さばくんは汁物の味を確かめず、塩を足した。一口飲んで顔が止まる。鍋を覗いたパン屋さんに、「今日は、ぼくが全部飲む」と言った。 「その鍋いっぱいを?」 さばくんは答えられなかった。パン屋さんは湯を足し、買い物帰りの人が残っていた白菜を刻んだ。おばあさんは、空の器を四つ並べる。 味を確かめる匙が戻ってきた。「まだ少し濃い?」。さばくんは今度は、うなずいた。もう一杯、湯を足す。その匙を、もう一度自分で口に運んだ。 「これなら、ぼくも食べたい」 鍋は初めの予定より大きくなった。四人で何度もおかわりして、ようやく底が見えた。さばくんは食べ終えるまで席を立たなかった。流しに残る鍋を見ても、先に自分の口を拭いた。

第8部「四日後の朝」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 08

第8部|四日後の朝

引っ越しは四日後になった。さばくんが日を伝えると、買い物帰りの人が棚の上の荷紐を取った。パン屋さんは朝だけなら手が空くと言い、おばあさんは部屋の床を先に拭いておこうかと聞いた。 さばくんは、台所で最後にしておくことを話すつもりだった。石鹸の場所、鍋の蓋の置き方、戸の閉まりにくいところ。けれど、誰もその続きを急がなかった。 「荷物、そんなに多くないから。ぼく一人でできるよ」 荷紐を差し出されたまま、さばくんは受け取らずにいた。頼まれたことをするのは簡単なのに、してもらうことを決めるのは、うまくできなかった。 「じゃあ、持つものを選んで。全部じゃなくていいから」 さばくんは、部屋にある一番重い鍋のことを考えた。「あれだけ、お願いしてもいい?」。買い物帰りの人は荷紐を戻し、両手を広げて鍋の大きさを確かめた。

第9部「箒のない手」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 09

第9部|箒のない手

翌朝、共同台所の床はもう掃かれていた。流しの皿も乾いている。さばくんが探した箒は、パン屋さんの手にあった。「引っ越し前くらい、少し楽にしなよ」と笑った。 さばくんは、何も持たない手を机の下に隠した。自分がいなくても、こんなに早く片づく。戸口に置いた袋を取れば、そのまま帰れそうだった。 おばあさんが隣に座り、針に糸を通してほしいと言った。さばくんは受け取ったが、糸の先を何度も外した。 「今日、ここにいていいのかな」 声が小さくなって、おばあさんが顔を近づけた。さばくんはもう一度言った。「何もしてないのに」。針を渡すと、おばあさんは縫わず、机に置いた。 「今朝、話したいことがあったんだよ。さばくんに」。新しい部屋の窓はどちらを向いているのか、そこから話が始まった。箒は戸の横へ戻った。さばくんの手は、机の上に出ていた。

第10部「自分の四角」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 10

第10部|自分の四角

膝掛けに入れる布を、さばくんも一枚選ぶことになった。部屋へ戻り、毎日使っていた布を広げた。洗って乾かすと、よく拭いた端だけ薄くなっていた。 いちばん綺麗なところを探したけれど、どこにも小さな染みがある。さばくんは手ぶらで台所へ行き、帰り際に、もう一度その布を持ってきた。 「こんなのでも、入れていい?」 おばあさんは布を広げ、「この辺なら切れる」と指を置いた。さばくんが定規を当てる。四角の端に、落ちなかった染みが一つ残った。 どこに置くか聞かれ、さばくんは青い縞の隣を選んだ。誰かに渡すものの中へ自分の布を縫うのは、思ったより時間がかかった。針を抜くたび、布が少し持ち上がる。 縫い終えると、染みのある四角もほかの布と同じ幅になった。さばくんは裏返して確かめ、また表へ戻した。もうその場所を、綺麗な布で隠そうとはしなかった。

第11部「まだ縫わないところ」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 11

第11部|まだ縫わないところ

最後の一枚を置く場所には、下地の生成りが見えていた。さばくんが残りの布を探すと、パン屋さんが手を止めた。「そこは、まだ空けとこうって話したんだ」。 さばくんは四角を見た。自分の縫い目が悪かったのかと思い、膝掛けの裏へ手を回す。ほどけた糸はなかった。 「新しい部屋で使う布を、そのうち一枚、もらえないかな」 パン屋さんが言った。さばくんは部屋の窓を思い浮かべた。まだ何も掛かっていない。カーテンを選び、長さを合わせたら、確かに布が少し残る。 「急がなくていいの?」 「丈が決まってからで」。さばくんは、その一枚を自分で選びたかった。「持ってくる。窓につけてみてから」。四角を埋める布はまだない。それでも膝掛けを広げると、机の端まで、もう十分な大きさがあった。

第12部「窓際で言う」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 12

第12部|窓際で言う

引っ越し前の夕方、さばくんは窓際に座った。戸を閉める音がするたび、何か用事がないか立ち上がりたくなる。今日は立たず、膝の上で両手を重ねた。 「ぼく、前に引っ越したあと、戻れなくなったところがある」 パン屋さんが茶を置いた。さばくんは湯飲みを持たずに続けた。「行けばよかったんだと思う。でも、用もないのに来たって思われたら、どこに座ればいいか、わからなくて」。 最後のところだけ、うまく声が出なかった。おばあさんの手が机を拭き、さばくんの前で止まった。少し待ってから、さばくんは顔を上げた。 「ここには、何も持たなくても来たい」 買い物帰りの人が、戸口から「うん」と答えた。さばくんは湯飲みを持った。熱くて、すぐ机へ戻す。そんな短い動作の間にも、誰も別の話を始めなかった。畳んだ膝掛けは、椅子の背に掛かっていた。

第13部「持っていくもの」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 13

第13部|持っていくもの

引っ越しの朝、さばくんが膝掛けを棚に置くと、おばあさんが取って渡した。「新しい部屋、足元が冷えるかもしれないから」。皆で使うつもりだった、と言いかけて口を閉じた。 青い縞、薄い緑、染みのある自分の四角。さばくんは畳んだ布を開き、もう一度畳んだ。自分の荷物として抱えるのが、まだ信じられなかった。 「でも、持っていったら、ここにはなくなる」 パン屋さんが窓際の椅子を引いた。「椅子はあるよ。来たら、ここに座ろう」。買い物帰りの人は湯飲みを棚へ戻した。さばくんの一つを、いつもの向きにして。 生成りの四角に、さばくんの指が止まった。次の部屋で選ぶ布を待つ場所が、荷物の中にも残っていた。頬を拭いたくても、膝掛けを離せなかった。 「これ、ぼくの部屋で使うね」。やっと言って、腕に抱き直した。パン屋さんが戸を押さえ、鍋を持つ人が先に出た。さばくんは自分の湯飲みを一度見てから、その後を歩いた。

第14部「新しい窓の長さ」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 14

第14部|新しい窓の長さ

新しい部屋で、さばくんはまず膝掛けを椅子に載せた。鍋を運んでくれた人が帰り、戸を閉める。急に静かになった部屋で、いつもなら荷物の紐を片づけるところだった。 今日は先に腰を下ろした。膝掛けを広げると、足元まで届いた。指で青い縞を押さえ、少し曲がった縫い目を辿る。台所の棚に残してきた、自分の湯飲みを思い出した。 窓の外には、バスが橋を渡っていくのが見えた。さばくんは立ち上がり、窓の長さを測った。選んでおいたカーテンは、下の端が少し余る。 切り取る前に、膝掛けの四角の大きさを確かめた。 余った布を一枚だけ、机の端へ置く。残りを仕舞っても、その一枚は仕舞わなかった。何を持って戻るのか、今度は自分で決めていた。 夜、窓を覆ったカーテンが、外の光を薄く通した。さばくんは膝掛けを膝へ戻し、部屋で最初のお茶を飲んだ。飲み終わるまで湯飲みを持ち、温かさがなくなってから、ゆっくり洗いに立った。

第15部「座ってから」の場面を描いた、さばくんの新しい挿絵

PART 15

第15部|座ってから

数日後、さばくんはバスを降り、共同台所まで歩いた。戸口で一度足が止まった。箒は持っていない。買い物も頼まれていない。腕の膝掛けを抱え直し、自分で戸を開けた。 「来たよ」 パン屋さんは鍋の蓋を探していた。おばあさんは窓を少し開け、買い物帰りの人は石鹸を落とした。いつものように忙しく、さばくんを見ると、一人が椅子の上の袋をどけた。 さばくんはまず座り、カーテンの布を机へ広げた。生成りの四角に重ねると、少し大きい。定規を借り、自分で端を揃える。針を進めるあいだ、新しい窓から見える橋の話をした。 縫い終えた膝掛けを広げると、布のまわりに細い生成りが残った。机の上に置き、四人で手を伸ばす。さばくんは自分の縫った角を押さえ、ようやく笑った。 まず皆とお昼を食べた。洗い物は、そのあとにした。四つの湯飲みの一つを自分の前へ置き、お茶を飲む。棚には石鹸の買い置きがあった。帰りのバスまで、今日はもう少し時間がある。